聖書は、実話じゃなくて例え話なんですよ。例え話だけど、実話だと思って鑑賞するんです。テーブルトークロールプレイングなんですよ。
多分、私にそう言われたら「そんなこと知ってるよ」と言うんでしょうけど、言われる前にそれに明確に気付いて頭を整理できる人は非常に少ない。みんな実話なのかフィクションなのか、よくわからないフワフワしたところで聖書を捉えて、ボーッと眺めてしまう。
みんなキリストは右の頬を殴られたら左の頬を差し出したと思ってる。でも、それは実話ではないんです。ただの例え話なんです。
それに気づいたとき、キリスト教がやろうとしたことの本質とアイディアの凄さに気づく。そのとき「キリストは神だ」と心の底から思えるんです。こんなアイディアは誰にも思いつかない。完璧すぎる。平伏するしかないんです。信者だとかそういう話じゃないんですよ。
ネットも何もない時代に、愛という概念を閃いて、それを実話のようなストーリーにのせて広めるという、このシステムが神がかっていて、人間の本質を突いてるんです。
これをやったのはキリスト教が最初なんです。ガンダムの100億倍ぐらい巨大で、巨大過ぎて見えないんですよ